マーレー

第2章 十字架の血潮


岩本遠億牧師

神は、御子の十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも、天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。コロサイ1:20

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ここで使徒パウロは、「御子の十字架の血」という意義深い表現を使っています。私たちは、彼がどれ程この「御子の十字架の血」という表現に重きを置いていたかを知っています。この短い表現に、私たちの主の死が持つ完全な力と祝福が表されているのです。これは、使徒パウロの説教の主題であり、彼の人生の希望、そして、栄光でありました。

ここで用いられている表現によって、パウロは御血と十字架の関係の2つの側面を指し示しています。その一つは、御血が、それが流された十字架からその価値を得ているということであり、もう一方は、御血をとおして十字架がその効力と力を啓示しているということです。したがって、十字架と御血は、お互いがお互いを照らす光となっているのであります。

御血の力について探求するにあたり、この表現が私たちに何を教えるかを考えることが非常に重要です。すなわち、「十字架の血潮」の「血潮」によって何が意味されているのかを考えることによって、私たちは、「御血潮」という言葉の中に私たちが既に発見した真理について、さらに新しい観点から考察を加えることができるでしょう。

ここでは次の三つのポイントに私たちの注意を向けることにしましょう。

I. 十字架の本質

II. 十字架の力

III. 十字架の愛

I. 十字架の本質

私たちは、キリストの十字架について語るとき、そこで私たちのためになされた業のことだけを考えるよう強く習慣付けられています。そのため、十字架の業がその価値を生み出す源泉についてほとんど気付いてはいないのです。つまり、十字架は、私たちの主の内的本質が外的に現れた表現だったということに気付いていないということです。聖書は、十字架における主の痛みと苦しみを、最も重要なこととしては、取り上げてはいません。これは、宗教的な感覚を呼び起こすためにしばしば人々によって強調されることではあります。しかし、聖書が強調するのは、主の内的本質なのです。この内的本質こそが主を十字架に向かわせ、十字架にかけられている間も主を鼓舞(inspire)したのです。

聖書は、私たちの注意を、十字架の上で主が私たちのために成し遂げてくださった業だけに向けようとしているのではありません。聖書は、私たちの注意を、特に次の2つのことに向けさせようとしているのです。それは、十字架が主イエスの中で成し遂げた業、そして、主イエスをとおして私たちの中で成し遂げられなければならない業であります。

このことは、主イエスが十字架の上で語られた言葉だけでなく、3度異なった箇所で、弟子たちに語られた言葉の中に現れています。「自分の十字架を背負ってついて来なさい。」主イエスは、ご自分の十字架刑を予告なさったとき、何度も、このように語られたのです。主イエスが十字架に関連して弟子たちの心に強く刻み込みたいと願われたのは、弟子たちが主と同じようになるということでした。これは、十字架の苦しみや迫害を受けるという、外に見えることがらについて同じになるということではありません。人格の内的な質について同じになるということです。このことは、主がしばしば付け加えられた「自分を捨て、十字架を取って」という言葉に表れています。これが、主が弟子たちに願われたことです。私たちの主は、次のことを教えてくださっています。主ご自身にとっても、また、弟子たちにとっても、十字架を背負うということは、物質としての十字架が肩に置かれたときに始まるのでないということです。決してそうではありません!ゴルゴタに見えるものは、主イエスの全生涯を鼓舞(inspire)した内的人格の発露だったのです。

では、主イエスにとって十字架を背負うとは、何を意味していたのでしょうか。そして、十字架はどのような目的を主イエスのために達成したのでしょうか。罪の悪が現れたとき、人の神に対する関係、そして神の人に対する関係に変化が生じたということを、私たちは知っています。罪は、人を堕落させて神から引き離し、神に敵対する者とするという結果をもたらしました。また、神にも、人に背をむける、すなわち神の御怒り、という結果をもたらしました。前者の結果として、私たちは、人が罪の圧制を逃れることができないという悲惨を見ています。また、後者の結果として、人が有罪であり、これが神の裁きを要求するという悲惨を見ているのです。

主イエスは、人を罪から完全に救い取るために来られ、罪の力に対処するだけではなく、人の有罪性にも対処しなければなりませんでした。最初に罪の力に対処して、次に人の有罪性に対処したのです。私たちはここで、真理を明確に述べるためにこれらを分けていますが、本来、罪は一体のものです。従って、私たちは以下のことを理解しなければなりません。私たちの主は十字架の贖いにおいて人の有罪性を取り除いただけではないのです。これは、主がまず罪の力に対して勝利してくださったからこそ可能となったのです。これが天の方法であり、これによってこれらの2つの目的が達成されました。ここに十字架の栄光があります。

主イエスは、罪の力を無きものにしなければなりませんでした。しかし、主は、これをご自身の人格においてのみ為すことができたのです。それゆえ、主は、罪深い肉を持つ私たちに最も近い存在としてやって来られました。肉の弱さを持つ者として、また、完全に誘惑に曝される者として、私たちと同じようになられたのです。彼が聖霊のバプテスマを受け、それに続いて悪魔の誘惑を受けられた時から、ゲッセマネであの恐ろしい魂の苦しみを受け、十字架においてご自身を捧げられた時に至るまで、主の生涯は、絶え間ない戦いの連続でした。それは、自分の意志を行い、自分の名誉を獲得しようとする思いとの戦いでした。肉の力、この世の方法で自分の王国を築くという自分の目的を達成しようとする思いとの戦いでした。主は、毎日毎日、ご自分の十字架を取らなければなりませんでした。すなわち、自分自身の命と意志を捨て、自分自身から外に出て、父から見聞きしたこと以外は何も為さず、語らない、ということだったのです。

荒野の誘惑とゲッセマネの苦しみ―彼の公生涯の最初と最後―において為されたことは、主の全生涯を性格付ける内的本質の特に明確な発露でありました。主は、自己主張をするという罪の誘惑に曝されましたが、これに打ち勝ち、父なる神の規範に適う者となったのです。最初の誘惑は、パンを得て飢えを満たすというものであり、最後の誘惑は、死という苦しみの杯を回避するというものでした。これらに打ち勝つことによって、主は、父なる神の御意志に従うことができたのです。

このように主はご自分とその命を完全にお捧げになりました。自分自身を否定し、ご自身の十字架をお取りになりました。主は従順を学び、完全な者とされたのです。主は、ご自身の人格において、罪の力に対する完全な勝利を勝ち取られました。そして、ついに、悪魔に対して、「この世の君がやって来たが、わたしの内面に対しては何もすることができなかった」と証拠をもって宣言なさったのです。

彼の十字架上の死は、罪の力に対して、主イエス個人が成し遂げた最後の、そして最も栄光に富んだ勝利でした。この十字架上の贖いの死から、十字架の価値が生じたのです。なぜなら、人の有罪性が取り除かれなければならないのなら、調停が必要となるからです。罪と戦うということは、同時に神の怒りに向き合うということです。これら2つのことは、お互いに切り離すことはできません。主イエスは、人をその罪から解放することを望まれました。しかし、以下の方法による以外にこれを為すことができなかったのです。それは、仲保者としての死を受けること、ご自身の死において罪に対する神の怒りの呪いを受けること、そして、ご自身が罪を背負って、これを取り去るということです。しかし、罪と呪いを取り除く主イエスの最上の力は、激しい死の痛みと苦しみを耐え忍んだという事実のみに起因するのではありません。むしろ、父の栄光と義のために、父に喜んで従う、その心からの従順において、その苦しみを耐え忍んだというところに起因するのです。この自己犠牲という内的本質、すなわち、十字架を喜んで担うという内的本質こそが、十字架にその力を授けたのです。

その故に、聖書は言っています。「キリストは、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神もキリストを高く上げて、全ての名にまさる名をお与えになりました」(ピリピ2:8-9)。

さらに、「キリストは、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人々にとこしえの救いを与える者となった」(ヘブル5:8-9)と言われています。イエスは、先ず、人としてのご自分の命において罪の力を打ち砕き、それを征服してくださいました。だからこそ、私たちから有罪性を取り除き、私たちを罪の力と有罪性の双方から解放することができるのです。十字架は、神聖な道標であります。これは、神の命に至るただ一つの道は、自己の命を差し出す犠牲の中にあるということを指し示すものです。

さて、主イエスの従順の霊、主イエスの自己犠牲が、十字架にその無限の価値を授けたように、十字架の血にも同じ価値を授けました。ここで、神はもう一度、私たちに十字架の血潮の秘密の力を啓示してくださいます。この血潮は、最愛の独り子が死に至るまで従順であったことの証明です。すなわち、これは、御子の内的本質の証明であるのです。その内的本質によって、御子は自分の血を捧げ、それを注ぎ、自分自身を喜ばせる罪を犯さず、むしろ自分の命を失うことを選び取られました。これは、全て、すなわち命そのものをさえ義性とし、父の栄光を現すということであります。この血潮の中に住んでいた命―この血潮が流れ出た心―は、愛と神、そしてそのご意志に身を捧げて光り輝き、神に対して完全に従順になり、自分自身を神に対して聖別したのです。

今、あなたはどのように考えるでしょうか。この血潮が、聖霊をとおして生き生きと力強くやって来て、私たちの心に触れてくださるとしましょう。また、私たちが正しく十字架の血潮の意味を理解するとしましょう。すると、この血潮がその聖なる本質を私たちに分け与えてくださらないということがあり得るのでしょうか。イエスは、十字架の上で「自己」を義性とすることから離れては、その血潮を注ぐことはできませんでした。これが、主イエスの本質です。それならば、私たちも「自己」を義性とすることから離れては、それを受け取ったり、喜んだりすることはできません。これが私たちに与えられる本質です。私たちは、自分の働きにおいても、十字架につけられた御方に自分自身を一致させ、この方を見習うようになっていきます。自己犠牲を最も気高く、最も祝福された人生の規範とするようになるのです。主の血潮は、今も生きて働く霊的な天来の力です。これは、自己を完全に明け渡した魂に、経験をとおして、次のことを理解させ、また知らせます。神の完全なる命に入る道は、十字架の自己犠牲以外に存在しないということを。

II. 十字架の力

私たちが十字架の力に注意を向けると、私たちは十字架と「十字架の血」の意味についての更に深い洞察を得ることができます。使徒パウロは、十字架の世界を「神の力」と述べています。

私たちは、神の力である十字架が何を成し遂げることができるのかを知りたいと望みます。私たちは既に、私たちの主が、罪に対して持っておられた二重の関係について考察しました。主は、先ず、人として、自分自身の中において罪の力を征服しなければなりませんでした。その後、主は、神様の御前に罪の効力として存在していた有罪性を打ち壊すことができたのです。最初のものは、彼の全生涯において行われたプロセスであり、後のものは、彼の受難の時に現れたものです。今、主がその御業を完成なさったので、私たちはこれらの祝福を同時に受け取ることができます。罪が一体のものであるように、贖いも一体のものです。私たちは、罪の力からの解放と有罪性の赦免を同時に、皆同等に受け取ることができるのです。しかし、赦免されたという意識のほうが、罪が赦されている実感よりも先に来ます。その反対はあり得ません。私たちの主は、最初に、私たちの有罪性のしみを罪に対するご自身の勝利によって消し去り、そして、その次に、天に入られました。この祝福は、私たちには反対の順序でやって来るのです。贖いは、私たちの上に上からの贈り物として下されます。したがって、神との間の正しい関係の回復が最初にやって来て、私たちは有罪性からの解放を受け取るのです。このようにして、罪の力からの解放が天から流れ来るのです。

この二重の解放は、十字架の力によってなされるものです。パウロは、解放の第一、すなわち、私たちが有罪性からの解放と呼ぶものについて語っています。神は、すべてのものをご自身と和解させるために、「十字架の血によって平和を造り」、和解なさったのです。

罪は神の中に変化をもたらしました。神の本質が変わった訳ではありません。私たち人間に対してどのような関係を持つかが変わったのです。神は、御怒りのゆえに、私たちに背を向けなければならなくなりました。しかし、キリストの十字架をとおして、平和が造られました。罪のための調停によって、神は私たちと和解してくださり、私たちをご自身と一つにしてくださったのです。

天において、十字架の力は、神から私たちを引き離す全てのもの、すなわち、神の御怒りを引き起こす全てのものを完全に除き去るという形で現れました。今、キリストにあって、私たちは、完全な自由を与えられ、神の中に入り、神との最も親密な関係を頂くことができるのです。平和が造られ、そして宣言されました。平和が天を統治していると。私たちは神と完全な和解を与えられ、神との友愛の関係の中にもう一度入れて頂いたのです。

これら全てのことは十字架の力をとおして行われました。嗚呼、私たちの目が開かれているならと思います。その目は、私たちが神に近づくことがどれほど自由で、何ものにも邪魔されることがないかを、そして、神の祝福がどれほど自由に私たちのところに流れて来るかを見ることができるでしょう。今や、神の完全な愛と力は、私たちのところにやって来たのです。私たちの内で働いてくださるのを妨げるものは何も、全く何も、ないのです。私たちが不信であったり、私たちの心がぐずぐすしていない限りは。ですから、私たちは心を静め、血潮が天において行使したこの力について沈想しましょう。そして、ついに、私たちの不信そのものが征服され、私たちがこのような天来の力を信仰によって受け取る権利を行使し、私たちの命が喜びに満たされるようになるまで。

さて、罪のしみを消し去り、神との新しい結合に現れる十字架の力ある効力は、もう一つの効力と分離することができないものです。このことについては、私たちは既に見てきましたが、それは、人を支配する罪の権威を「自己」義性によって打ち砕くという効力です。したがって、十字架は、そのような犠牲を喜ぶ心を整えるだけではなく、そうする力を授け、それを完成なさるということを、聖書は私たちに教えるのです。このことは、ガラテヤ人への手紙の中で、驚くほど明確に語られています。ある箇所では、十字架は有罪性に対する和解として語られています。「キリストは、私たちを律法の呪いから解放してくださいました。ご自身が私たちのために呪われたものとなって下さったのです。なぜなら、木にかけられるものは全て呪われると書いてあるからです」(ガラテヤ3:13)。しかし、他の3つの箇所では、十字架が罪の力に対する勝利であることがもっと簡明に語られているのです。すなわち、自分の命、肉、そしてこの世における「私」を死なせる力として語られています。「私は、キリスト共に十字架にかけられました。しかし、私は生きています。いや、それは私ではなく、キリストが私の内で生きておられるのです」(ガラテヤ2:10)。「キリストに属する者は、肉を、その愛着/情欲と欲望とともに十字架につけたのです」(ガラテヤ5:24)。「しかし、私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに誇りとするものがあってはなりません。イエス・キリストによってこの世は私に対して十字架につけられ、私はこの世に対して十字架につけられたのです」(ガラテヤ6:14)。これらの箇所において、十字架によって私たちの上に行使される御力の結果、私たちがキリスト、すなわち、十字架にかけられた御方と一体となり、そして、その一体性の結果、私たちが彼に準ずる者となることが示されているのです。

このことを理解するために、私たちが思い出さなければならないことがあります。それは、イエスが十字架の道を選び、十字架を取り、背負い、そして最後にその上で死んだ時、彼がそれを第二のアダム、すなわち、ご自分の民の頭、また、保証人としてこれを行われたということです。彼がなさったことは、ご自分の民にとって力あるものでありましたし、今もその力を維持しています。そして、これを理解し信じる者たちの中にその力を行使なさるのです。主が彼らに授けられる命は、十字架を最も卓越した性質とする命であります。私たちの主は、仲保者として、その全生涯にわたってご自身の十字架を背負われたのです。仲保者として十字架の上で死ぬことによって、主は、栄光の命を手に入れられました。信者は、主と1つとなってその命を頂くとき、十字架をとおして、死の力を打ち破った命を受け取るのです。そして、彼は次のように言うことができます。「私は、キリスト共に十字架につけられた。」「私は、私の古い人がキリスト共に十字架につけられたことを知っている。」「私は、罪に死んだ。」「私は、肉を十字架につけた。」「私は、この世に対して十字架につけられた。」(ローマ6:6,11)

神の言葉(聖書)のこれらの表現は、過ぎ去った時に起こった出来事について述べています。イエスの霊と命は、信者たちに、十字架の上で成し遂げられた罪に対する勝利の分け前を授けてくださいます。そして、今、イエスの命への参与とイエスとの交わりの力において、信者はイエスが生きたように生きるのです。彼らは、自分自身に死んだ者として生きます。その「古い人」と「肉」が磔にされて死ぬ、それを知る者として生きるのです。主との交わりの力の中において、彼らはイエスが生きたように生きます。彼らは、全てのこと、また、全ての時において、「古い人」とこの世が何を言おうとも、十字架を選び取り、十字架がその業を行えるように委ねるのです。

イエスにとっての命の規範は、自分自身の意志を父の意志のもとに差し出し、その命を死に明け渡すことでありました。したがって、彼は、天来の贖いの命に入られましたが、それは、十字架を通って王座につかれたということです。確かに、罪の王国があるように、イエス・キリストにあって、新しい恵みの王国が造られたのです。私たちは最初の人アダムと結びついているため、罪の王国の権威の許に服しましたが、信仰によってこの恵みの王国の力強い影響の許に招き入れられたのです。イエスが十字架の上で罪を屈服させた驚くべき力は、私たちの中に生き、そして、働かれます。それは、私たちをイエスが生きたのと同じ命に招き入れるだけではなく、私たちも同じように生きることができるようにするものです。私たちも十字架を自分の命の座右の銘、規範として生きることができるようになるのです。

同信の友よ。あなたがたが注ぎかけられ、毎日その下で生きている血潮は、十字架の血であります。それは、神の命の完全な犠牲であったという事実からその力を得ています。血潮と十字架は分ち難く一体のものです。血潮は十字架から流れ来たり、十字架について証言します。また、十字架へと導きます。十字架の力は、その血潮の中に存在します。血潮の一滴に触れられると、あなたは霊感を受け/励まされ、十字架をあなたの命の規範とするようになります。「わたしの思いではなく、あなたの御心が行われますように」が、今、この力において、日々の聖別の歌となりますように。十字架があなたに教えるもの、それは、十字架があなたに授けるものであり、十字架があなたに為すようにと教えること、それは、十字架が、あなたに行なうことを得さしめるものです。十字架の血潮のとこしえの注ぎかけを選び取りなさい。そうすれば、この血潮をとおして、あなたの中に十字架の本質と力が、見えるようになるでしょう。

III. 十字架の愛

私たちが十字架の血潮の完全な栄光について学ぼうとするなら、今、十字架の愛に、私たちの注意をしっかりと向けなければなりません。私たちは、十字架をその表現形とする内的本質について語り、その内的本質が私たちの内側で、そして、私たちをとおして行使する影響力について語ってきました。しかし、これには、私たちが十字架の血潮に自分を明け渡し、自分の上にその完全な力を発揮して頂くなら、という条件がついていたのです。恐れがしばしばクリスチャンの心の中に湧き起こります。そのような内的特質をいつも維持し、外に現すのは大きすぎる重荷であると。そして、十字架がそのような特質を生み出す「神の力」であるという保証も、そのような恐れを完全に取り除いているわけではありません。これは、この力の行使が、ある程度は、私たちの明け渡しと信仰に依存しており、それらは、理想的な状態からかけ離れているからです。私たちは、十字架の中に、この弱さからの解放と、この病からの癒しを見出すことができるでしょうか。「十字架の血潮」は、私たちから有罪性の染みを取り去るだけでなく、罪の力に対する勝利にも、常に、そして最後まで与る者にすることができないのでしょうか。

十字架の血潮には、それができます。もう一度近づいて、十字架があなたに宣言したことを聞きなさい。十字架の愛が語ることを正しく理解し、心の中にそれを受け取った時のみ、私たちは十字架の完全な力と祝福を経験することができるのです。まさにパウロも、このことについて次のように証言しています。「私はキリストと共に十字架につけられた。しかし、私は生きています。いや、私ではない。キリストが生きているのです。そして、私が、今、肉において生きている命は、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の子の信仰によるものなのです」(ガラテヤ2:20)。

十字架の上で「私のためにご自身をお捨てになった御方」の愛に信頼する信仰が、この方と共に磔にされた者として生きることを得させてくださるのです。

十字架は愛の啓示です。主イエスは、十字架の上で彼らのために血を注ぎ出す以外、ご自分がそれほど愛した者たちを贖う方法はないということをご覧になりました。このことの故にこそ、主イエスは、十字架の恐怖から身を背けることをなさらなかったのです。その魂が震えおののいた時でさえです。十字架は、私たちに主が私たちをどれほど真実に愛してくださったかを教えます。そして、その真実の故に、主の愛は全ての困難―罪の呪いと人の敵意―を乗り越えるということ、そして、主の愛が私たちをご自身のために制圧し、勝ち取ってくださったことを教えるのです。十字架は、永遠の愛の勝利の印です。十字架によって愛は王座に就いているのです。その故に、全能の御座から、十字架は、今、愛する者たちに、彼らが望むことの全てを行なうことができるのです。

十字架の私たちに対する要求、十字架が私のために為してくださろうとしていること、そして、私がこれに与るために、この世から選び出された十字架の意味とその栄光と命。今、これらを、新しく、栄光に富んだ光が、明々と照らしているのです。私の肉は、あまりにも道を外れる傾向が強く、聖霊の約束や天からの力さえも、私が必要とする勇気を与えてくれるには不十分だと思われる程です。しかし、見よ!ここに力の約束よりも更に優れたものがあります。十字架は、永遠の全てを制圧する愛の中で、私に生けるイエスを指し示しているのです。私たちに対する愛の故に、主はご自身を十字架にお捨てになり、一つの民をご自身のために贖い出されました。この愛において、主はご自身のところにやって来る全てのものを受け入れ、その十字架の交わりの中に入れ、ご自身が十字架の上で獲得した全ての祝福を授けてくださるのです。さあ、今、主は私たちをその永遠の愛の力の中に受け取ってくださいます。これは、一瞬も止まることなく、彼が十字架の上で私たちのために獲得してくださったものを私たちの内で成し遂げるのです。

今、分かりました!私たちが必要としているのは、イエスご自身について、そして、全てを制圧する彼の永遠の愛について、正しい理解を持つことであったのです。十字架の血は、その愛の天における栄光がこの地上に現れたものです。十字架の血は、その愛を指し示しています。私たちが必要としているのは、イエスご自身を十字架という観点から見ることだったのです。十字架によって示された愛の全てを見れば、主が今日私たちのために抱いてくださっている愛がどれほど絶大なものであるかが分かります。どんな力、また、どんな罪の妨害にも脅かされることがなかった愛は、今、私たちの内側で障害となる全てのものを制圧することができるでしょう。呪われた木の上で勝利を得たこの愛は、私たちの上に完全な勝利を獲得し、維持するに十分な力を持っているのです。「屠られた小羊」によって御座の中央で現された愛は、常に十字架の御傷を身に帯び、ただ、私たちに、その十字架の内的本質、力、そして祝福を授けるためだけに生きているのです。イエスをその愛において知ること、その愛の中に生きること、そして、その愛に満たされた心を持つことは、十字架が私たちにもたらす最大の祝福です。これが十字架の祝福の全てを楽しむことに繋がる道です。

栄光の十字架よ!私たちのところに永遠の愛を届け、そして、私たちにそれを知らせてくれた、栄光の十字架よ!血潮は、十字架の実であり、力であります。血潮は、贈り物、すなわち、その愛の贈与であります。この血潮に触れられる不思議な関係の中に招き入れられた人は、何という完全な愛の喜びの中に住んでいるのでしょう。この人は、瞬間瞬間、十字架の血潮による清めを頂きながら生きているのです。この血潮は、何と驚くほど、イエスとその愛の中に私たちを一体化させることでしょう。イエスは大祭司です。その心から流れ出た血潮が私たちをイエスとその愛に一体化させるのです。イエスは大祭司です。その心から血潮が流れ出し、そしてその心に血潮は帰って行きます。イエスご自身が血潮の注ぎかけの最終地点であるからです。イエスご自身が、十字架の上で勝ち取った私たちの心をご自分の所有とするために、血の注ぎかけを完成なさるのです。[つまり、十字架の血を注がれた私たちの心が、イエスのところに帰って、その本質がイエスの本質と一つとなるとき、十字架の血の注ぎかけが完成するということ。]彼は、大祭司です。この大祭司は、その優しい愛の中に生き、私たちの内にある全てのものを、完成なさいます。その結果、十字架が私たちの生の規範として確立した本質と、私たちの生として提供した勝利が私たちによって実現されるようになるのです。

神に愛されているクリスチャンの友よ、あなたの希望は十字架の血潮の中にあるのです。自分自身を明け渡し、その完全な祝福を経験しなさい。この血潮のしずくの一滴一滴は、明け渡しと、自己の意志の死、すなわち「私」の死を、神の道、そして神の命への道として指し示します。十字架の血の一滴一滴は、十字架のイエスが獲得してくださった力をあなたに保証します。それは、あの内的本質、あの磔にされた命をあなたの中に維持します。この血潮の一滴一滴は、イエスとその永遠の愛をあなたに届け、全ての祝福をあなたの中で成就し、あなたをその愛の中に保つのです。

あなたが十字架とその血潮について一つ一つ思い巡らすとき、あなたの救い主のそばにより近く引き寄せられ、それらが指し示す御方とのより深い一体性の中に導き入れられますように。

>> 第3章 血によって聖別された祭壇

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