マーレー

第3章 血によって聖別された祭壇


岩本遠億牧師

七日の間、あなたは祭壇の贖いを為し、それを聖別しなければならない。それは、最も聖なるものとなる。これにふれるものは、何であれ、聖なるものとなる。出エジプト記29:37

+++

幕屋の祭器の中で、祭壇は、多くの観点から見て、最も重要なものです。垂れ幕の内側にある至聖所の中に置かれた、神の栄光を表す金の恵みの座は、さらに栄光に富んだものではありましたが、イスラエルの目からは隠されていました。それは、天における神のかくれた存在を表すものであったからです。イスラエルの生きた信仰が強くそれに向けられたのは、年に一度だけでした。しかし、一方、祭壇には、神の祭司たちが毎日、絶え間なく仕えていたのです。[目に見える]祭壇に絶え間なく仕えることが、[隠された]至聖所への入り口となり、[目に見えない]神への全き奉仕に繋がることを、このことは教えているようです。

神殿や幕屋が存在するようになる前は、祭壇が神を礼拝する場所でありました。そのことをノアや族長たちの礼拝に見ることができます。人は、神殿がなくても、祭壇があれば礼拝することができました。しかし、仮に、神殿があったとしても、祭壇がなければ、神を礼拝することはできませんでした。神は、シナイでモーセに、ご自身が民の中に住むための幕屋についてお命じになる前に、動物の犠牲による礼拝についてお命じになっています。祭壇における奉仕が始めであり、中心でありました。確かに、これが幕屋や神殿における奉仕の心臓部であったのです。

何故そうなのでしょうか。祭壇とは何だったのでしょうか。何故、祭壇はそれほど重要な地位を占めていたのでしょうか。ヘブライ語の「祭壇」という言葉が、このことに対する答えを与えてくれます。それは、「殺す場所」という特定的な意味を持っています。犠牲を屠ることのない香炉にも、「祭壇」という名がつけられていました。なぜなら、その上で、神への犠牲の捧げものが捧げられたからです。その第一の思想はこれです。すなわち、人の神への奉仕は、自分自身と自分が持つ全てを神に犠牲として捧げ、聖別することにあるということです。この目的のために、神ご自身によって作成が命じられ、聖別された特別な場所がなければなりませんでした。それが祭壇です。祭壇は、神によって作成が命じられ、聖別されたため、その上に置かれた捧げものを聖別し、神に受け入れられるものとしました。捧げる人は、自分の罪の贖いの捧げ物だけではなく、和解に続く感謝の捧げ物も持って来ました。これは、その人の神に対する愛と感謝に満ちた思いを表すとともに、神とのより親密な交わりを求め、神の恵みを完全に喜ぶ心を表すものです。祭壇は、犠牲が捧げられる場であり、聖別の場であり、そして、神との交わりの場だったのです。

旧約における祭壇は、新約にその本体を持っています。すなわち、旧約の祭壇は、新約おいて実現した霊的な礼拝の中に存在する完全な実体の影なのです。「私たちには祭壇がある」とヘブル人への手紙13:10で聖霊がお語りになっています。天の永遠の活動の中にも、祭壇があります。「そして、もう一人の御使いがやって来て、祭壇のそばに立った。その手には黄金の香炉を持っていた。...そして、御使いはその香炉を取り、それを祭壇の火で満たした」(黙示録8:3,5)。新約における祭壇も、旧約における祭壇に劣ることなく、死を与える場、すなわち、犠牲を捧げる場でありました。どこがその場であったかを述べるのは難しいことではありません。新約聖書に書かれています。それは、神の小羊が「永遠に一度」、罪のための偉大な犠牲の捧げ物となった祭壇です。その祭壇とは十字架です。ここに、信じる者はすべて、自分自身と自分が持っているものの全てを、神への感謝の捧げ物として差し出さなければならないのです。

この章の冒頭で掲げた聖句は、祭壇自身が、それに触れるどんなものをも聖別する力を持つために、先ず、それ自身が血によって聖別されなければならなかったということを示しています。この聖句は、私たちに次のことを教えます。

I. 血によって聖別された祭壇

II. 祭壇によって聖別された捧げもの

神の霊が私たちの目を開いて、十字架の血潮が持つ完全な力を理解させてくださいますように。十字架の聖別が私たちの死の場であり、私たちを神に対して聖別する場であるということを、私たちが理解することが出来ますように。

I. 血によって聖別された祭壇

上の聖句は、アロン(とその息子たち)を大祭司として聖別するための指示の中で語られたものです。祭司は一人ずつ、一つの祭壇を持たなければなりませんでした。しかし、祭司自身が血によって聖別されなければならないのと同様に、祭壇も血によって聖別されなければなりませんでした。神は、罪のための捧げものを用意し、それによって祭壇を清め、その贖いとしなければならないことを命じておられます。

七日間にわたって、モーセは祭壇の贖いを為す業を遂行しなければなりませんでした。

このように書いてあります。「そして、モーセは、(罪のための捧げものの)血を取り、それを自分の指で祭壇の角の周囲に塗って、これを清めなければならない。そして、その血を祭壇の下に注いで、これを聖別し、それへの和解としなければならない」(レビ8:15)。しかし、この「和解」によって、祭壇は聖別されただけでなく、「最も聖なるものの一つ」とされたのです。この言葉は、神がお住まいになった幕屋の中の契約の箱(の蓋)を表したものと同じ言葉です。ここでは、祭壇についても同じ言葉「聖」が使われていますが、それは、同様の、しかし、別の尺度における聖を有しているのです。一方は隠されている「聖の聖=至聖所」、他方は近づくことができる「最も聖なるもの=祭壇」です。さらにこう書かれています。「何であれ、祭壇に触れるものは聖とされる」(出エジプト記29:37)。血による七重の贖い(七度血を注ぎかけること)によって、祭壇は、その上に置かれた全てのものを聖別する力を獲得しました。イスラエル人は、その捧げ物が小さすぎるとか、価値がなさ過ぎるとか恐れる必要はありませんでした。何故なら、祭壇が、その上に置かれた捧げ物を聖別したからです。私たちの主は、これを良く知られた事実として取り上げ、質問なさいました。「捧げ物と、捧げ物を聖別する祭壇とどちらがより偉大なのですか」(マタイ23:19)。祭壇は、七度血を振りかけられることによって、その上に置かれる全てのものを聖別しました。

この言葉によって、私たちは、「イエスの血の力」と、それによって聖別された彼の十字架について、栄光に満ちた、新しい理解に達することができるのです。血潮は、死に至るまで従順であったキリストの生涯が明け渡しであったことの証明であり、和解をもたらし、死に対する勝利を得る力がありました。しかし、ご覧なさい―ここに血潮の持つみずみずしい栄光が私たちに啓示されるのです―。血潮が流された十字架は、イエスが犠牲となられた祭壇であるというだけではなく、血潮によって聖別された祭壇でもあるのです。そして、それは、私たちもその上で犠牲となり、神に受け入れられる供えものとなるべき祭壇としても聖別されたのです。

血によって聖別された十字架だけが、その力を持ちます。そうです。聖別され、最も聖なるものとなり、それに触れる全てのものを聖別するのです。

異教の礼拝でも、人々はしばしば、十字架についての教理を教えられますが、それは、自らを苦しめることや自己犠牲によって、神に喜ばれるようになるという教えです。彼らは、肉に死を与えるような苦しみそのものの中に価値を見出そうとしているのです。彼らは、人間が行うことは、それが苦しみであろうと、犠牲であろうと、すべて、罪のしみが付いており、したがって、罪を征服したり、神を喜ばせたりすることが出来ないことを知りません。彼らは、十字架そのものでさえも、自己犠牲の方法としては、先ず聖別されなければならなかったということを理解していません。十字架の苦しみが私たちを聖別できるようになる前に、十字架そのものが最初に聖別されなければならなかったのです。

これを理解させるために、神は最も栄光あるものを提供して下さいました。神は、祭壇を作らせ、七度の、したがって、完全な和解をこれに与え、その結果、それに触れるどんなものでも聖となるようになさったのです。神の御子の血によって、十字架は「最も聖なるもの」になり、私たちを聖別する力を持ったのです。

私たちは、これがどのように行われたかを知っています。イエスは、ご自身の尊い、神聖な血を私たちの罪のための犠牲として注ぎ出し、ご自身を父の御意志に完全に服従させ、明け渡し、罪に対して個人的な勝利を勝ち取ってくださいました。これによって、イエスは、罪を征服したばかりか、私たちに対する罪の力をも無力なものとしてくださったのです。しかし、このことについての私たちの理解や、信じる強さ、また感謝は、この事実に対して全く十分なものではありません。

イエスが十字架の上で行い、また、受けられたことは、第二のアダム、すなわち、私たちの保証人、私たちの頭(かしら)として、行い、受けられたたのです。イエスが十字架の上でお示しになったことは、肉から自由になり、神と聖霊の命に入る唯一の道は、この肉を神の正しい裁きに明け渡すことだということです。イエスが私たちと同じ肉の弱さを持って来られたのはこのためでした。神の命に入る唯一の道は、肉の死を通るということだったのです。

しかし、彼は、ただ単に、これが唯一の道だということを私たちに示しただけではありませんでした。ご自身の死によって、彼は、私にも同じ道を歩ましめる権利と力を獲得なさったのです。私たちが持っている自然の生は、罪の権威の許にあまりにも完全に支配されてしまっているので、私たちは、自分自身による苦しみ、犠牲、努力によっては、これから解放されることはできません。しかし、イエスの命と苦しみは、その天来の力をもって、罪の権威を完全に打ち砕いたのです。今、誰でも神の道と神の命への道を探し求める者は、イエスとの交わりにおける犠牲と死をとおして、この道を見出し、その中を歩む力を与えられるのです。

イエスの十字架の血をとおして、また、イエスの血が明らかにした完全な和解と永遠の命の力をとおして、イエスの十字架は永遠に聖別され、唯一の祭壇となりました。このイエスの十字架の上でこそ、神の前に持って来られた全てのものが捧げられるのです。

イエスの十字架は祭壇であります。私たちは、既に祭壇とは殺すところ、犠牲を捧げるところだということを見ました。香が捧げられるところも、祭壇と呼ばれました。犠牲の祭壇の上でも、香の祭壇の上でも火が焚かれました。神に捧げられるものは、まず死をとおり、その次に、火によって焼き尽くされなければならないのです。捧げ物は、その自然のままの状態では、清くありません。したがって、死によって、罪に対する裁きが行われなければならず、次に、火によって焼き尽されなければなりません。しかし、その結果、天来の霊的姿に移し変えられるのです。

犠牲の祭壇、すなわち十字架、がキリストについて宣言することは、聖なる御神の神殿における規範です。神に至る道は、死、すなわち、命の犠牲を通る以外存在しません。私たちにとって神への道も天への道も、イエスの十字架による以外、存在しないのです。

そして、イエスの十字架は、単に、イエスがその上で私たちの罪のために死んでくださったということを信じるためだけの十字架ではありません。決してそうではありません。イエスの十字架は、私たちもその上で死ななければならない十字架なのです。主イエスは、弟子たちに、以前から何度も警告しておられました。ご自身が十字架に磔にされなければならないこと、そして、弟子たちもご自分に続いて十字架を背負うべきことを。一人一人が、主のように磔にされる準備をしなければならないのです。しかし、主が意味しておられたのは、単に外に見える苦しみとか死だったのではありません。そうではありません。主は、内的な自己否定、自己という生を憎み、それを失うことについて語っておられるのです。これが主の十字架との交わりを持つということです。主は、このことをご自身の磔刑よりも前に語っておられます。

聖霊は、使徒パウロによって、イエスが十字架で刑死なさった後には、十字架についてどのように語らなければならないかを私たちに教えておられます。「私はキリストと共に十字架につけられた。」「キリストに属する者はその肉を愛着と欲情と共に十字架につけたのです。」「私には、キリストの十字架以外に誇りとするものがあってはなりません。キリストによって、この世は私に対して十字架につけられ、私はこの世に対して十字架につけられたのです。」ガラテヤ人への手紙からのこれら3つの引用は、私たちが十字架を、単に私たちの有罪性の贖いのための苦しみではなく、私たちの生の特徴であり、力であると考えなければならないことを教えているのです。

イエスのこの地上での命は、十字架において、その目的、頂点、そして完成に達しました。十字架からはなれて、イエスはキリストであることはできなかったのです。天からやって来たキリストの命は、私たちの中に同じ特徴を生み出します。それは、十字架に磔にされた者の命です。「私はキリスト共に十字架につけられた」という句は、後に続く句「キリストが私の内に生きています」と分ち難く対になっているのです。毎日、毎時間、私たちは磔の場に留まらなければなりません。瞬間瞬間、キリストの十字架の力が私たちの内側で働かなければなりません。私たちは、彼の死に倣う者へと変えられなければなりません。そうすれば、神の力は、私たちの内に現れるでしょう。十字架の弱さと死は、常に神の命と力とに結合しています。パウロは言っています。「なぜなら、キリストは弱さのゆえに十字架にかけられましたが、神の力によって生きているのです。私たちも彼にあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力によって、彼と共に生きるのです」(IIコリント13:4)。

多くのクリスチャンは、このことを理解していません。彼らが誇りとしている十字架と、パウロが誇りとしていた十字架は異なるものです。彼が誇りとしていた十字架は、イエスだけが磔にされた十字架なのではなく、自分もイエスと一緒に磔にされた十字架だったのです。多くのクリスチャンたちは、キリストが磔にされた十字架は誇りますが、自分もその上でイエスと共に死のうとはしません。しかし、このことこそが、神がご計画になったことだったのです。十字架の上で私たちのための贖いとなった、その血潮が、十字架を聖別しました。そして、それによってこそ、私たちは命の道を見出すことができるのです。

以下の聖書の箇所はよく知られたところですが、もう一度良く注意してその言葉に耳を傾けましょう。ここでは、贖いの血潮と肉の犠牲との区別、ならびに、その関連性が、非常に明確に教えられています。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちはイエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスは、ご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。この道は、彼が私たちのために聖別してくださったものです。...まったき信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」「新しい生ける道」を造ったのはイエスであり、「血をとおって大胆に」入るのは私たちです。「新しい生ける道」は、イエスご自身が、血潮を注がれた時、ご自身の肉の幕を裂くことによって、造られた道です。この道は、裂かれた肉を通ることなしに歩くことのできないものです。十字架の磔と肉の死は、血潮が注がれた道です。誰でも十字架の血潮に与る者は、血潮によってこの道を歩むように導かれます。これが十字架の道なのです。神の命への道は、自己生の完全な死に他ならないのです。自己を完全に放棄する十字架が、私たち自身を神に対して聖別することができる、ただ一つの祭壇なのです。

十字架は、イエスの血潮によって聖別されました。これは、私たちが、聖く、神に受け入れられる犠牲の捧げ物となることができる祭壇なのです。

今、私たちは祭壇と十字架を関連づける聖句の意味を知ることができます。「何であれ、祭壇に触れるものは聖なるものとなる」(出エジプト記29:37)。彼(人)が捧げるものは小さくても、価値のないものであっても、それによっては、神に受け入れられないということはないということです。祭壇は、血によって聖別され、それを聖なるものとする力があるのです。したがって、私が、自分の自己犠牲が全く完全ではないのではないかと恐れるときも、また、私が「自己」に死ぬということが、十分に誠実でも真実でもないのではないかと恐れるときも、私は、私自身から目を離し、イエスの血がその十字架にお授けになった驚くべき力に自分の思いを向け、そこから離れてはなりません。この十字架は、それに触れるものを全て、聖別するのです。十字架――磔にされたイエス――は、神の力です。十字架が何を意味するのかということをより深く洞察することによって、私は本当に十字架を選び取り、それをしっかりと掴むようになるでしょう。その時、十字架から命の力がやって来て、私を拾い上げ、握って放さず、私を十字架に磔にされた者として生きることができるようにして下さるのです。

瞬間瞬間、私は、自分が十字架に磔になっているということを意識しながら歩むことができるようになるでしょう。ここに自己の放棄があります。なぜなら、十字架に磔になった御方の霊が、ご自分の十字架を、自己という命の死、そして、神の新しい命の力としてくださったからです。イエスの十字架、すなわち、聖別された十字架から、聖別する力が私の上に臨み、その力が私の中で働くのです。私が心から信頼して自分自身を十字架に差し出したときから、私は聖別された人――神の聖人の一人――となります。そして、十字架の聖別の力を信じ、その力との交わりを求めて生きようとすればするほど、私は、さらに前進し、さらに増大する聖を受け取るようになるのです。私がイエスと共に磔になった十字架は、日々の祭壇となり、それに触れる全てのものを、そして、私を、神の聖によって聖別します。血によって聖別された祭壇は、その上に置かれた捧げ物を聖別するのです。

しかし、私たちはさらに次のことを考察しなければなりません。

II. 祭壇によって聖別される捧げもの

祭壇は血によって聖別されました。それは、その後その上に置かれる捧げ物を聖別するためです。しかし、私たちが祭壇に置く捧げ物とは一体何でしょうか。私たちは、このことに対する答えを「ローマ人への手紙」の中のパウロの言葉に見出すことができます。「したがって、兄弟たち、私は、神の恵みによってあなたがたに懇願します。あなたがたの体を神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(ローマ12:1)。犠牲の動物の体は祭壇の上に置かれました。キリストは、木の上で私たちの罪をそのお体に背負われました。私たちの体は、私たちが祭壇の上で神に供えなければならない犠牲なのです。体には多くの器官がありますが、それらは、幾つかの働きをもった素晴らしい統一体です。これらは、それぞれ個別に、そして、全体としても、祭壇の上に供えられなければなりません。

体には頭があります――ここで私たちが頭と呼ぶのは、知力の座としての頭のことです。頭に浮かぶ全ての思いと共に、頭は祭壇の上に供えられなければなりません。私は、私の知力を完全に神への奉仕のために聖別しなければなりません。それを完全に神の支配と指示のもとに置き、神に用いて頂かなければなりません。私は、「全ての思いを捕らえて、キリストに従わせ」(IIコリント10:5)なければならないのです。

頭はいつかの部分から成っています。目、口、耳です。目によって、私は見える世界、そしてその欲望に触れます。私の目は、虚しいことがらから離れ、見るか見ないか、神の御心に従い、完全に神のものとならなければなりません。耳によって、私は自分の仲間との交わりに入ります。耳は、神のために聖別されたものとならねばならず、私の肉を喜ばせる言葉や会話を聞いてはなりません。私の耳は、主が私に送ってくださる声に耳を傾けなければならないのです。口によって、私は自分の中にあるもの、私が考え、求め、為そうとすることを外に表します。口によって、私は、他の人に対する影響力を行使します。私の口、舌、唇は、神の御意志、ご栄光に合致したこと以外は何も話さないようになるまで、聖別されなければなりません。目、耳、口、頭、そしてそれに属する全てのものは祭壇の上に置かれ、十字架によって清められ、聖別されなければならないのです。

私は、これらを操る全ての権利を放棄しなければなりません。私は、自分が徹頭徹尾罪深いことを認め、自分にはこれらを支配し、聖別する力がないことを認めなければなりません。しかし、これら(目、耳、口、頭)を買い取ってくださった方は、その罪深さと弱さを受け入れてくださる。これらをご自身の十字架と完全な明け渡しに与るものとして招き入れ、守ってくださる。私は、これを信じなければなりません。この信仰において、私は自分の罪深さと弱さを神に捧げ、祭壇の上に置かなければならないのです。血潮は、既に祭壇を清め、それを「最も聖なるもの」となさいました。それに触れるものは、全て聖別されるのです。触れるという行為は、生きた、霊的な、現実の事柄です。そして信仰にとって、これは、永続的な事柄です。十字架による和解は、十字架との交わりの道を開きました。血潮は、十字架を、私の祭壇として聖別したのです。

体には、手と足があります。手は、行為の能力を表します。私の手作業、私の仕事、私の奉仕、私の所有物、これらは全て、祭壇に供えられて、聖別され、罪から清められ、神だけのものとならなければなりません。私の足は、私の道、歩み、そして、私が選ぶ行程、私が親しくなる仲間、私が訪れる場所を表します。祭壇によって聖別された足は、もはや自分の道を行くことはできません。私の足は、神に捧げられ、神の導きのもとにあり、その奉仕のために用いられるのです。そして、悲しんでいる人々や失われた人々に福音を届けるために、それらは「美しく」なければなりません。体は、手と足を縛られて、それらを動かす自由もなく、祭壇の上に置かれなければなりません。しかし、ついに、神は私の魂に叫ばせてくださるのです。「私はあなたの僕です。あなたは私の束縛を解かれました」(詩篇116:16)。

私たちの救い主は、十字架にかけられ、両手と両足を釘付けにされました。主との驚くべき霊的一体性において、私たちの両手と両足は彼と共に磔にされたのです。手足を自然の赴くまま、罪深く使うなら、それは有罪の判決を受け、日々、死刑判決のもとにあります。しかし、生けるキリストの十字架の聖別の力の中にあるとき、私たちの両手両足は自由で、聖く、神の御用のために適したものとなるのです。

体には心臓があります。[訳者注、ここで筆者はheartという言葉を、心臓、心という両方の意味で使っている。]心臓は命の中心であります。心臓には血が流れ込み、また出て行きますが、血の中に魂が宿っているのです。心臓の中で、人の全ての欲望と努力の全て、意志と選択の全て、愛と憎しみの全てが出会います。イエスの心臓は十字架の上で刺し抜かれました。私たちの心臓に入ってきて、また出て行くものは全て、祭壇の上に置かれなければなりません。私は、私自身の望みに従って追求し、意志する権利、自分の欲望に従って愛し憎む権利を放棄しなければならないのです。イエスの場合、十字架は、次のことを意味していました。「私の意志は数に入らず、神の御心が全てである。」「神のご意志、それがどんな代償を伴うものであっても、それが行われなければならない。たといそれが私の命を代償とするものであっても。」最も小さいことがらにおいても、最も大きなことがらにおいても、神のご意志は行われなければなりません。私の思いが行われることは皆無でなければならない。全てにおいて、神の御心が行われなければならないのです。

神の御心だけが行われる、これが、十字架の背後にある目的です。イエスが十字架を私たちのために祭壇として聖別してくださった目的がここにあるのです。意志とは、体の全てを支配する心臓の力です。意志は、私たちの愛と憎しみによって支配されており、また逆に、意志によってその人の全体が支配されているのです。意志は、祭壇の上に置かれる時、すなわち、十字架にかけられる時、十字架との交わりによって、その力をその人の全体に及ぼします。私の意志は罪深く盲目であり、私の意志は罪に定められ、公然と死に明け渡され、十字架の上で死を与えられています。しかし、イエスとの交わりの中にある意志は、もう一度生き、もう一度命に甦り、自由にされ、今完全にイエスの導きと権威のもとに服しているのです。十字架の上にあるとは、祭壇の上にあることなのだ、ということを心臓が理解する道がここにあります。そして信者は、これらの一見対立する状態は、栄光ある統一体として一つである、ということを経験します。彼の意志は十字架の上で縛られていますが、自由であり、彼の意志は十字架の上で死んでいますが、生きているのです。そして、この真理は、今、彼にとって栄光ある出来事となるのです。「私は、キリストと共に十字架につけられた。」「キリストが私の中に生きている」「私は、信仰によって生きる」と。

心臓と頭、手と足は、共に一つの体を作っています。それらは肉の構造物として素晴らしい一体を構成しますが、それが魂が宿る場所なのです。体は、最初、魂の僕として創造されました。霊の導きに従い続けるものとして創造されたのです。しかし、罪がその序列をひっくり返しました。肉欲に満ちた体は、魂の誘惑者となり、霊を奴隷状態にまで引きずり降ろしたのです。本来の序列を回復する、神が定められたただ一つの道は、体が祭壇の上に供えられるということです。体が、聖霊によって、十字架に釘付けになるということです。体は祭壇に上らなければなりませんが、それは、食べたり飲んだりする体のまま、眠ったり働いたりする体のまま、そして、不思議な神経の体系によって魂とこの世が接触する体のままで良いのです。キリストの十字架の力は、聖霊によって、すぐに、そして、継続的に実効力を働かせ、権威をもって体全体を治めてくださるに違いありません。体も、魂と霊がその中に宿ったまま、神への生きた犠牲の捧げ物になって行くのです。これによって、次の深い意義をもった言葉が成就するのです。「体は主のため、主は体のためです」(Iコリント6:13)。

愛するクリスチャンの友よ。私たちが主の食卓(聖餐)に集まり、主にお会いしようとする時、また、私たちのために十字架に犠牲になられた御方を受け取ろうとする時、私たちの主が私たちに求められることは、自分自身を主に、そして、主のために差し出すことです。主は、私たちのために何をしようとしておられるのでしょうか。主は、私たちを、ご自身が持っておられるものの中で最も栄光あるもの、すなわち、十字架の交わりの中に招き入れようとしておられるのです。主ご自身も、これによって父なる神の栄光にお入りになったからです。主は、私たちがご自身を見出すことができる道と場所を示してくださいました。それは、血潮によって聖別され、その結果、供え物を聖別することができるようになった祭壇です。主は、このことをみ言葉によって語っておられます。

あなたは、厭わずに祭壇、死の場所、に上って行こうとしているでしょうか。あなたは厭わずに十字架を自分の居場所としているでしょうか。すなわち、磔にされたイエスとの交わりの中に、あなたの生活の全ての時間を過ごそうとしているでしょうか。それとも、それは、あなたにとって難しすぎ、自分自身、自分の意志、自分の生を、死に至るまで差し出すこと、すなわち、主イエスの死を日々背負うことはできないと感じているでしょうか。私はあなたに懇願します。これがあなたにとって難しすぎるとは考えないようにして下さい。これが恵み深い主イエスとの親しい交わりのただ一つの道なのです。そして、この方をとおしてのみ、永遠の父とその愛の中に自由に入る門が開かれるのです。

それは、あなたにとって難しすぎる必要などないことです。イエスとの交わりの中で、それは喜びとなり、救いとなるからです。あなたにお願いします。どうぞ、このことを進んで行ってください。共に、祭壇に上り、肉に死にましょう。それは、私たちが生きるためです。それとも、あなたには恐れがあるのでしょうか。自分は、このような犠牲を自分で完成するのに向いていないのではないかと。もしそうなら、神が今日あなたにお与えになる、栄光に富んだ慰めの言葉を聞きなさい。「祭壇が供え物を聖別するのです。」旧約の祭壇ですら、七回の贖いによって、その上に置かれた供え物を聖別する力があったのです。「まして、永遠の御霊によって、ご自身をしみのない供え物として神にお捧げになったキリストの血は、どんなにか」十字架という祭壇を聖別したことでしょうか。この完全な祭壇、どんなものをも聖別する祭壇の上に、犠牲としてのあなたの体は置かれるのです。あなたは、すでに尊い血の驚くべき力について学びました。この尊い血潮がどれほど完全に罪を征服し、「至聖所、最も聖なるもの」への道を開けたのかを。血潮は、神の御前で最も聖なる場所に振りかけられた時、神の王座を恵みの王座にしたのです。

あの「至聖所」と祭壇に関しては、まさに同じ言葉が用いられています。両者とも、「最も聖なるもの」と呼ばれました。人の目からは隠された「最も聖なるもの」(至聖所)において、血潮がその驚くべき力によって、罪の権威を神の目の前で打ち倒すという業を行いました。その同じ業が、あなたが捧げられる「最も聖なるもの」(祭壇)においても成し遂げられるのです。神がお住まいになる「最も聖なるもの」(至聖所)において、血潮は、その驚くべき力によって、一切のものを完成なさいました。あなたが住むべきあなたの「最も聖なるもの」(祭壇)においても、血潮は全く同じ力を持っています。あなた自身を祭壇の上に横たえなさい。祭壇に注がれた血潮が持つ聖別の力に信頼しなさい。十字架と血潮は、大祭司である生けるイエスから、そして火である聖霊から切り離すことができないものであることを信じなさい。祭壇が供え物を聖別する力は神聖で絶大です。ですから、あなたは、これが自分自身の穢れと弱さに勝利してくださるということを頼りにすることができ、このことを確かな保証としてを受け取るようになるでしょう。あなたを聖別し、あなたを認める祭壇があります。その上にあなた自身を横たえなさい。この祭壇は、神の優れた臨在の場所です。イエスと共に死ぬことは、父の愛の中で、イエスのいのちに繋がる道を歩むことなのです。

時折、次のようにも言われて来ました。イエスご自身が祭壇そのものなのだと。イエスが大祭司であり、かつ、偉大な捧げものであるからです。これは真理を表しています。磔にされたキリストから離れて十字架は存在しません。十字架において、生けるキリストは見出されるのです。このようにキリストを理解することは、あなたの信仰の助けになるでしょう。磔にされたキリストをあなたの祭壇と考えなさい。そして、あなた自身の体と、体が含む全てのもの、その中にある全ての命を、父の御前でキリストの上に横たえなさい。その時、あなたは、神に受け入れられる、生きた、聖なる捧げものとなるのです。その時、あなたは、主の晩餐がその型となっている完全な交わりに達するのです。

「私たちが裂くパンは、キリストの体との交わりに与ることではありませんか。私たちが飲む杯は、キリストの血との交わりに与ることではありませんか。」磔にされた肉と注がれた血との完全な交わりこそ、主イエスが私たちに与えたいと願っておられることです。そして、私たちは、主が死なれたように、自分を完全に死に明け渡し、主、すなわち磔にされた御方、と共に生きる時に、自分がこの交わりの中にあることを知るのです。私たちは、自分自身を祭壇の上に横たえ、自分自身を十字架に明け渡し、信仰によって、磔にされたイエスと一つになるのです。

兄弟たちよ。私たちには一つの祭壇があります。その祭壇は、捧げ物を聖別します。どんなものでも、その祭壇に触れるものは聖別されるのです。私は、キリストの恵みによって、あなたがたに懇願します。あなたがたが自分の体を、神に受け入れられる、生きた聖なる供え物として、神に捧げてくださるようにと。

目次に戻る

関連記事